聖書と窓際のトットちゃん。
日本人の自〇率は、先進国(G7)の中で一位。。。なぜか。
この世で一番読まれた本は聖書だろう。50億から60億部も出版されている。
日本の一番売れた本ランキングを見た。(これは確かな情報か分からない)
2位 こころ 夏目漱石
これがどういうことか考えたことがあった。
日本人には国民共通で「これ」といった。宗教がない。というか宗教というものに不信感、不快感さえある人もいるだろう。しかし、世界の国々はそれぞれに色んな宗教があり、神様など、一人一人が信じている対象がいる。
ここで昔聞いた小話。
様々な国の学生たちが集まるアメリカの学校で、ある日本人留学生が自己紹介をすることになった。
皆んなそれぞれ自己紹介する中で宗教も紹介していた。
日本人の彼は「僕は無宗教です。」と言った。
そしたら、1人の学生に「では君はお金を信じるのかい?笑」と言われ、他の学生達も笑ったらしい。
日本人には共通して信じられる対象がないのだ。いやある時点まではなかったと言っておく。
信じられる対象がない。それを表している小説が「人間失格」と「こころ」だと思う。
「人間失格」の主人公は元々信じる対象がない為、人間に疑いや不信感を抱き、次第に自意識が自我を上回り狂ったと個人的に思う。
「こころ」は、人を信じられなかった先生が自〇した話。
戦後の日本人は信じられる「なにか」を探していたのだと思う。そして見つかったのだ。
つまり「メディア」だ。黒柳徹子さんは日本史上最初のテレビ出演者の1人。この結果は、日本人が神様よりも自分よりも「メディア」を信じている。というのを表した結果だと思ったのだ。
メディアを信じた、SNSの情報を信じた若者が自ら命を絶っていく。
これは「メディア教」の教徒という性質上当たり前のことなのだ。
「宗教」は形がないようで心に確かにある。
「メディア」は形があるようでその実態は空虚だ。
例えば、人間失格の葉蔵が小さい頃から聖書を持って教会に行く習慣があったらどうなっていただろう。
例えば、こころの先生やKが熱心な仏教徒だったらどうなっていただろう。
日本人は自意識が強い民族なんだと思う。
あらゆる宗教に共通するのは、その自意識から離れてただ「行い」をする習慣があることだ。簡単に言えばルーティンだ。
方角を決めて礼をする。
経本を読む、聖書を読む。
その内容や意味は正直どうでも良いと思う。意味ではなく身体で実感する時間が必ずある。
ではなぜ日本人には、それが浸透しなかったか。なぜ「宗教」という言葉に不信感や不快感もしくは恐怖を感じるのか。
それは宗教という言葉を借りたビジネスがあるからだ。
ビジネスだ。自意識まみれのビジネス。これらは宗教とは呼ばない。
宗教の意味を辞書で調べた。(※メディアではなく辞書で)
神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。とある。
メディア教に安らぎはあるだろうか?
宗教という名を借りた自意識まみれのビジネスに安らぎはあるだろうか?
そこに本当の意味での安らぎはない。
そう偏差値42の人間は思いました。
それでは、また。